この不平等な世の中で、年齢だけは平等といわれる。
どんな人でも一年にひとつだけ歳を取る。
「僕も先日ついに65歳になった。
最近感じることだが、年齢のイメージには「自分が感じるものと、他人が感じるもの」とに
かなりのギャップがあるようだ。
以前、会社の幹部から「放送で年齢はもう言わない方がいいんじゃないですか」
といわれたことがある。
その頃僕は60歳、還暦を越えた頃である。
当時、一般的にいって、60歳は既に定年退職の年齢だ。
ラジオ放送で僕が年齢をいえば
「へえ~、こいつもいい歳なんだなあ。けっこうジジイじゃない」
と感じる人が多いという判断だろう。
でも「そうだろうか」と僕は腹の中で反論していた。
年齢を言わない方がいいという判断は、あくまでも昔ながらの年齢のイメージでものをいっているような
気がしてならなかったのだ。
「村の渡しの船頭さんは今年60のおじいさん。
歳は取っても櫓を漕ぐときは元気いっぱい櫓がしなる」あのイメージである。
60歳はジイサンという固定観念。
オイオイ、それじゃあ長寿世界一の日本は、ジジイとババアの老大国ということになってしまうじゃないかという思いであった。
年齢のイメージはあくまでも国の差、個人の差が大きいのではないか。
僕は女性でも、ことさら年齢を隠す人にあまり好感を持たない。
「いいじゃない、歳はみんな取るんだよ。
堂々と人生、何年生きてます!という方が潔いと思う。
若い方がいいと思うのは、そう思った時点で若者に負けている。
いくら年齢を明かさなくても気持ちはすでに若者に負けているのだ。
しかし、いくら当人はそう思っても年齢に対する世間のイメージが固定しているのも事実である。
ある先輩が僕にいった。
「お誕生日、おめでとうございます」そこまではいいんですよ。
でもね、そのあとがいけない。「いつまでもお元気でいてくださいね」って。
いつまでもお元気でとは、はつらつとした高齢者によく使うことばである。
裏を返せば、あんたはもうジジイになったということ。
確かに 「いつまでのお元気で」と若い人には言わない。
たいていは「おじいじゃん。いつまでもお元気でいてくださいね」 あるいは
「おじいいちゃん。いつまでも長生きしてくださいね」
こういわれたら、正真正銘の「ジジイ」になったと烙印を押されたようなものなのだ。
65歳の誕生日。
幸いにも番組のアシスタントの小口絵理子から、「いつまでのお元気で」とは言われなかった。
いろいろ強がりをいったが、
まだ本格的ジジイではないと、ちょっと安心した4月17日だった。
テレビのニュースなどで各地の有名な行事を見ると、機会があったら本物を一度見てみたいと思う。
そんな思いで実現するのは数少なくなっている。
過去には、「徳島の阿波踊りを一年前から企画し観に行ったことがある。
あれはもう六年前のことだ。
以来、そんな機会はなかった。
しかし、先日ついに念願のものを見る機会があった。
「鎌倉の「流鏑馬」を実際この目で観たのである。
流鏑馬はテレビのニュースで見るとほんの一瞬。
疾走する馬に跨った武士?が馬上から数メートル先の的を射る。
その瞬間の映像のみが「流鏑馬」の総て。
あとは全く何も知らない。
当日、行って最初に知ったのは、流鏑馬は単に流鏑馬ではな
正式には「流鏑馬神事」という。
「神事」なのだ。
僕は単純にも次から次と馬が走ってきて的に向かって矢を放つものだと思っていた。
とんでもない!
席に着いたのが昼過ぎ12時頃。
待つこと一時間、
すると僕の席からは全く見えないところで、
「出陣」「鏑矢奉献・願文奏上」「天長地久の儀」
なる今風にいうセレモニーが行われる。
暫し40分この儀式が続く。
「いつやるんだよ」気が短いのは日本人の常。
となりの親父がじれたようにつぶやく。
「同感!早くやれ!と僕も腹の中で同調する。
でも見えないけれど神事は始まっているのだ。
そうなんだよね。
待つこと二時間。
古式豊かな装束の武者が馬に跨り240メートルの細長い馬場を疾駆して来る。
一の矢、二の矢、三の矢、
それぞれの的に全力疾走の馬上から的に矢を放つ。
見事に当たると付近の観衆がやんやの喝采。
九人の射手(いてという)が数回にわたりチャレンジする。
まあ早いこと!!
僕も必死でこのブログ用に携帯カメラのシャッターを押したが、殆どがピンボケ。
始まってしまえば、ほんの数メートル先をあっという間に走り去る。
この迫力に圧倒され待ち時間の長さなどウソのような興奮状態に引き込まれる。
源頼朝が奨励したという流鏑馬に坂東武者の往時を思う。
そう実感した一日だった。
桜前線は何処まで行ったろうか。
開花宣言、そして三分咲き、五分咲き、そして満開と、
東京の桜も常に話題の中心になりながら過ぎていった。
僕も桜の樹の下にブルーシートを敷いて仲間と盛り上がるいわゆる「花見」は出来なかったが、
例年の習慣で犬を連れて多摩川沿いの満開の桜は何度も楽しむことができた。
「花は桜樹、人は武士」
その桜は潔くあっという間に散り、花見の喧騒もウソのように静まりかえった。
世の中、面白いもので桜のシーズンが終わり「ほっと」している人達もいる。
桜、満開の頃、ある店の前に大きな看板が立っていた。
「花見客の皆様へ」で始まる文言には
怒涛のように押し寄せる花見客への迷惑がこめられていた。
「当店のトイレの使用は固くお断り致します」
多分、当初は店主も心良くトイレ使用を認めていたのであろう。
「すいませ~ん。ちょっとトイレ貸してください」
「どうぞ、どうぞ」
これが人情である。
ところが、こんな連中が次から次にやって来る。
花冷えの中、ビールをしこたま飲んで、切羽詰って駆け込む奴もいるだろうし、
中には酔ってトイレを汚す奴もいたであろう。
人情では済まなくなった様子がありありと見える。
だって看板は実に立派なもので、相当な金をかけ作ったものなのだ。
今年の桜は終わった。
「看板、また来年使うからちゃんとしまっといて」
店主の声が聞こえるようだ。

毎朝の散歩の楽しみのひとつ。
家の近所の小高い丘から「今日は見えるかな」と、遥か彼方の富士山を眺めるのが楽しみだ。
冬の間は見える確率も高く、雪を頂いた小さな富士を望むと、
やはり日本人ですね、心が和む。
先日、河口湖の親戚の別荘に行く機会があった。
近くにあるゴルフ場の駐車場から見上げた富士山は圧巻だった。
東京から望む富士山は前の山並みに阻まれ、五合目あたりから上の部分しか見えないが、
さすがスケールが大きい。
果てしなく延びる裾野の広がりまでが眼前に展開される。
思わず携帯電話のカメラを向けた。
新幹線に乗る機会があると、必ず富士山が見えるかどうか確認しないと気が済まない。
僕だけでなく周りの乗客の中にも
「わ~、今日の富士山は格別だなあ」。
なんて声が聞こえてきたりするので、富士山探しは日本人のDNAのなせるワザなのかもしれない。
さすが霊峰富士である。
日本に来てから10年ほどになる外資系の会社に勤めるアメリカ人がいる。
彼は東京の喧騒を離れ、もう何年も前から新幹線通勤をしている。
その彼がこぼす。
夕方、東京駅から帰りの新幹線に乗りついウトウトしていると、
たまたま隣に乗り合わせた日本人の乗客に突然起こされたりするというのだ。
たいてい年配のおばちゃん。
「富士山がみえますよ!ほらマウントフジ!」
彼にとって新幹線の車窓から見える富士山は決して珍しいものではない。
いやそれどころか見飽きているといってもいいほどのものだ。
恐らく隣に乗合わせた日本人のおばちゃんは、眠りこけている外国人旅行者が
せっかくの富士山を見逃すのが忍びない。
ムリにでも起こして富士山を見せてあげたいといった親切心なのであろう。
そのとき彼はどう反応するか。
またかと思いながらも見飽きている富士山を眺め、
「オ~、ワンダフル!ビューティフル!」てなことをいうらしい。
いちいち大変ですねえといったら彼がひとこと。
「それがガイジンの務めです」だって。
この愛くるしい瞳で見つめるのは、「我が家の愛犬「キラク」と「ルル」。
人懐こいのが特徴のスピッツだが、この犬たちにも優先順位がある。
一番は家内で、僕は常に二番手。
家内と一緒のときはこの僕を平気で無視する。
家内の後をいつも追いかけ、時にはじっと見つめていたりする。
このじっと見つめる犬を見て、はるか大昔のことを思い出した。
あれは、30年以上前になるかな、某シャンソン歌手のステージで司会をした。
会場はその歌手の熱烈なファンで動く隙間もないほど。
中年の女性中心の「おばちゃま」で溢れている。
「こんにちは。司会の高嶋です」なんていっても、その女性たちはこっちに関心を示さない。
パンフレットをみたり、写真集をみたりと全くの無関心。
ところが、お目当てのシャンソン歌手登場.!
となると会場の空気が一変する。
彼女がでてくるや、会場の床からドーッと音があがってきた。
嬌声と拍手が湧いてくるという感じ。
僕がしゃべっていたときのシラケぶりがウソのようだ。
歌手のステージには衣装替えが必ずあり、その間を司会がつなぐわけだが、
僕を迎える会場の雰囲気は又もや冷淡そのもの。
「あんたは関係ないのよねえ。早く○○さんを出してよ」
「あんた、邪魔なのよ。早く引っ込みなさいよ」.!
会場の僕を見る全員の瞳がそう訴えかけるのだ。やりにくいったらありゃしない。
再びシャンソン歌手登場!会場の雰囲気は瞬時に情熱的なものに変化するのだ。
あのときの会場全体の瞳が、家内を見つめるキラクやルルの目とそっくり。
あの司会は疲れたけれど、スターの凄さを知った貴重な体験だった。
貴方しか居ない。あなたしか見えない。
熱烈なファンの心理は他人を全く寄せつけない。
ルルとキラクも同じで、家内がいるときに呼んでも「な~によ~」って感じで
こっちを一瞥するのみ。
あまりの現金さに笑うしかないのだ。